メディア掲載情報【市原悦子】こうすると左足が動くのよ。“さあ、一緒に遊ぼう!”――優しいやまんば 市原悦子のことば | 文春オンライン

『週刊文春』 2019年4月25日号掲載の記事が公開されました。

市原悦子の書籍を多く手掛けたノンフィクションライターの沢部ひとみさんが
エピソードを語ってくださいました。

新連載 市原悦子のことば   沢部ひとみ

市原悦子

市原悦子さん ©駒澤琛道

20年前、初めて『AERA』の「現代の肖像」に人物ノンフィクションを書くことになった時、真っ先に思い浮かんだのが市原悦子さんだった。わたしは何よりも市原さんの声が好きだった。毎週土曜の夜7時に始まった…

情報源: こうすると左足が動くのよ。“さあ、一緒に遊ぼう!”――優しいやまんば 市原悦子のことば | 文春オンライン

 20年前、初めて『AERA』の「現代の肖像」に人物ノンフィクションを書くことになった時、真っ先に思い浮かんだのが市原悦子さんだった。

わたしは何よりも市原さんの声が好きだった。毎週土曜の夜7時に始まった『まんが日本昔ばなし』では、ささくれた心が優しくなでられるような気がした。

佐藤愛子が「美人にあらず、不美人にあらず」と言った市原さんの顔も好きだった。接するたびに親しみを覚え、不思議と幸せな気持ちになれる福顔だった。彼女の顔は自分の身近な人に似ているようで、実は誰にも似ていない。市原さんの演じる『岸壁の母』や『家政婦は見た!』の主人公は、声同様、役ごとにさまざまな表情を見せた。

当時わたしは46歳のシングル。30代で一度人生は終わり、40代は余生のように感じていた。前年には母も亡くし、都会での一人暮らしが心細くなりかけていた。もしも市原さんの知己を得られたら、そう想うと胸にぽっと明かりが灯った。

わたしは「取材申し込み」という名のラブレターを一生懸命書いた。願いは届き、都ホテル東京での講演「わたしの選んだ女優の道」の後、会えることになった。1999年2月2日、『AERA』の編集者といっしょに、初めて市原悦子さんと対面した。窓のある控え室、その中央のイスに腰掛けた市原さんは、濃いグレーの地にワインカラーの花をちりばめたワンピースがよく似合った。実物はテレビで見るより、ずっとほっそりしていて若々しかった。

「初めまして。沢部と申します。どうぞよろしくお願いします」と挨拶すると、市原さんは「こちらこそよろしく」と言った後、突然「大丈夫なの? 書けるの?」と聞いた。彼女独特のジャブの一撃だった。わたしは笑顔で「大丈夫です」と返した。彼女は「クックッ」と喉の奥で笑った。

「『現代の肖像』では、20人以上の関係者に取材をさせていただきます」と編集者が伝えると、市原さんは「そんなに大勢の方に取材するの、たいへんね」と言い、すぐさま付き人に「これから挙げる人たちの連絡先を教えてあげてちょうだい。岩上廣志先生、今村昌平監督、脚本家の柴英三郎先生、竹山洋さん、山田太一さん、それから……」と読み上げた。仕事のできる女社長の風格があった。

それから7ヶ月あまり、舞台稽古、ロケ現場、朗読と歌のステージなど、北は北海道から南は九州まで、わたしは市原さんについて回った。1999年11月8日発行の「現代の肖像」に書いた題は「『ふつう』顔に秘めた女神の輝き」。わずか4ページの原稿にわたしは最大の情熱と情報を注ぎ込んだ。

市原さんは「引き締まった文体ね」とほめてくれた。「いつか本を書かせてください」と頼むと、「いいわよ。でもずっと先にね」と言った。

その年の末、新宿の戸山公園の近くでドラマ『私は女引越し屋』のロケがあった。市原さんが高田馬場駅から早稲田方向に歩くシーンの隠し撮りが終わって、ロケは解散した。

もうすぐわたしの47歳の誕生日だった。帰りがけに思い切って、「何か言葉を入れていただけませんか?」とテープレコーダーを差し出すと、「いいわよ。しょぼくれたときに聞けるようにね」と笑って、少し離れたところで録音してくれた。

家に帰ってテープを聴くと、市原さんの明るく透き通った声で「40代よりも50代はずっと充実しますよ。年を取ることに希望を持ってね」と吹き込まれていた。テープは今も大切にしている。

このときから晩年まで、市原さんとの縁は続いた。2012年からは『やまんば 女優市原悦子43人と語る』を頭に3冊の本づくりが始まり、そのたびにわたしは呼ばれた。

「地獄の門番をしております」

2016年11月1日、市原さんが所属するワンダー・プロダクションの熊野勝弘社長から「市原さんの体調不良のため、明日のインタヴューは中止になりました」という電話があった。インタヴューは翌年、春秋社から出版される市原さんの自伝的エッセイ集のためのもので、11月2日は最終回の予定だった。

それから間もなく済生会中央病院に入院したという知らせが入った。市原さんの病名は「自己免疫性脊髄炎の疑い」。この病気は、免疫系が自分の体を異物と誤解して、自分の組織を攻撃し損傷するという難病である。市原さんの場合は、脊髄に炎症が起き、左手足のしびれや麻痺を引き起こしていた。

一度は自宅に戻れるほど回復していた脊髄炎が、年末に再度悪化した。年が明けて、2017年の元旦に市原さんの妹さんから「姉の看病チームのお当番に加わってもらえませんか」というメールが届いた。「お当番」はすぐ下の妹さんと末の妹さん、3年前に亡くなった夫・塩見哲(さとし)さんの姪の久保久美さん、それから付き人の遠藤綾子さんの4人だった。

脊髄炎の再発以来、ガクンと気持ちが落ち込むようになり、それからというもの、「あの気の強い姉が、帰らないでそばにいてと言うようになったのよ」と妹さんは電話で話した。病室は個室で完全看護だったが、気が弱っている市原さんをひとりにするのは忍びない。しかし、4人ですべてを分担するのは無理がある。そこで「必要なら、いつでも声を掛けてください」と手を挙げていたわたしに声がかかったのだ。週1回のペースで朝10時半から夜7時まで、昼食と夕食を一緒にとってほしいと言う。わたしは二つ返事でOKした。

1月6日、80日ぶりに再会した市原さんは最初、無言でベッドに伏したままだった。往年の大女優、杉村春子に「市原悦子というひとは、せりふと体がいつでもいっしょに動く俳優なんです」と言われたほど、市原さんは体がよく動いた。左の手足が動かなくなれば、役者としての再起は絶望的だろう。

市原さんの肌は白くて皮膚が薄い。血管が細くて注射針が入りにくく、右手の甲がひどく内出血していた。わたしがその手を取り、しばらく温めると、不思議なことに黒紫色が引いた。市原さんはそれを見てやっと嬉しそうな顔をした。しびれと痛みの残る手足をオリーブオイルでマッサージすると、「気持ちいいわ、ありがとう」と声が出た。

体を起こし改めて表情を見ると、ステロイドの投薬量が増えたせいで、顔はパンパンにむくみ、心なしか目が大きくなっていた。こちらの驚きに気づいたのだろう。「わたしは閻魔(えんま)様のいちばん下の家来で、地獄の門番をしております」と言って笑った。病室の白い壁には「賀正 明けましておめでとうございます 2017年元旦 悦子」という書き初めが、和紙にしっかりした筆致で書かれていた。

その日の午後のことだった。

「沢部さん、面白いことを発見したのよ、ほら、見て」

「えっ、何ですか」

「こうすると左足が動くのよ。『さあ、いらっしゃいよ。一緒に遊ぼう!』」

ベッドの上で市原さんはしきりに麻痺した左足を動かそうとして見せた。おとなしくて尻込みしがちな妹(左足)を、活発なお姉ちゃん(右足)が誘い出す。ベッドの上の一人芝居だ。市原さんの役者魂は健在だった。

済生会中央病院の旧病棟の窓からは、東京タワーがよく見えた。その日、わたしは彼女の髪を頭のてっぺんにまとめる「タワー編み」を試みた。市原さんは髪をいじってもらうのが好きだった。頭に小さな東京タワーを乗せて、書き初めの前でポーズを取る市原さんを、わたしは何枚も写真に撮った。